哀愁の矢の川峠
「矢の川峠(矢ノ川峠)」と書いて「やのことうげ」と読む。私やのこ小僧も地元尾鷲からいろいろと情報発信しまっせ!  【 このページの文章、写真は無断で転用しないでください。もしご利用される場合ははやのこ小僧までご一報を!】

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以前、峠の茶屋は初代と二代目(のぶえさんの母ひさのさんの茶屋)、そして三代目と大きく分けて三つあったことをお話しました。
初代の峠茶屋の話しはもう少し待っていただくこととして、地元新聞の記事によりますと、実はのぶへさんが茶屋を営む前に、のぶへさんの母、南ひさのさんが茶屋を営んでいたと書いております。
昭和23年ひさのさんが老齢の為、当時43歳ののぶへさんが茶屋の後継者となった、と書いてありました。これが現在よく知られている稲田のぶえさんの三代目峠茶屋です。

のぶへさんは東京に嫁いでいたようですが、29年に夫の孝太郎さんを亡くし一男五女の子供を抱えて尾鷲(山の鼻)に帰ってきました。
茶屋を始めてからは矢の川峠に始発のバスで出向き、最終のバスで帰る毎日でした。
ただ月に2,3日は峠の茶屋に寝泊りしていたようです。
その後茶屋に住み込むようになり、茶屋の商材や水などは、長女のひろ子さんがバスで運ぶ毎日でした。
昭和55年11月29日、七十五歳で他界されました。

のぶへさんの長男の住む名古屋で葬儀をすませ、尾鷲の折橋墓地に埋葬されています。
しかし家族や縁者の人たちが、のぶへさんの矢の川峠への想いを察して何らかの形で峠茶屋跡に分骨してやりたいということで、翌年3月に高さ七〇cmの川石に『冬の日のぬくもりやさし茶屋のあと 稲田のぶへ眠る』と刻んだ石碑を、骨灰の上に安置したのでした。
この句を詠んだのは、のぶへさんの次女、昭子さんの夫の駿雄さんでした。
2008_1010_104941AA.jpg


私は峠に行くたびにこののぶへさんの碑におまいりします。
そしてこの賑やかだっただろう峠の広場のどこかに、今でものぶへさんがいるような気がします。
生前に会って話をしたかった・・・ そう思う今日この頃なのです。



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