哀愁の矢の川峠
「矢の川峠(矢ノ川峠)」と書いて「やのことうげ」と読む。私やのこ小僧も地元尾鷲からいろいろと情報発信しまっせ!  【 このページの文章、写真は無断で転用しないでください。もしご利用される場合ははやのこ小僧までご一報を!】

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元盛松

先日告知しました元盛松探訪のイベントに行ってきました。

予想以上に壮大な石垣の文化と特異なその歴史に驚くばかりです。

ぜひ観光資源としても検討していきたいと思います。

歴史

文化年間(1804~17)の初め、江戸幕府の命により和歌山藩が編纂した『紀伊風土記』に「下松」と言う村名で出てきます。 

「下松」と言う名の「サガル」と言う意味合いを嫌い、将来の繁栄を祈って1772年に「盛松」と改称したと云われている。

「紀伊南牟婁郡誌」によると、新宮の堀内氏がこの地区を討滅した1575年以前からこの集落が存在していたことが伺える。

1601年の尾鷲地区の検地によれば、隣接する三木浦は二十二戸、早田は七戸であるのに,盛松は二十七戸で、当時は大きな集落として位置づけられていたようです。

1874年【明治5年】の戸籍簿によると、三木浦九十七戸【542人】、早田浦五十二戸【223人】、盛松は二十七戸【126人】と記されている。
なんと! 盛松では270年もの間27戸の戸数が守られてきたのです。
この二十七戸という数字は、この地特有の立地により、村を守るために必要な取決めだったようです。

1922年【大正11年】に三木浦に始めて電灯が点り、文化面、生活面での遅れには勝てず、先祖伝来の地を棄て、昭和初期にかけて全戸移転することになります。

集落跡の様子

盛松は周りを山に囲まれ、海は大きい石の浜により隔離された村落で、尚且つ村をぐるっと一周する背丈ほどの猪垣が砦(要塞)を連想させます。
その猪垣の三箇所には木戸が設けられて、村と外部とを行き来する出入り口でした。
また猪垣に沿って外側には立派な道もあった。

戦時中盛松から出征兵士が出ると、そのものを先頭に集落の人々全員が猪垣の外の道をぐるっと回り送り出したそうです。2007_0221_103635AA.jpg



村内には1611年、周峰千徹僧が開基した海蔵寺がありました。
このお寺にある老松は枝を下げどこからもよく見え特徴があったので、「下松」と呼ぶようになったらしい。
大正12年にはこのお寺に三木浦の小学校の分教場が設置される。
ここで小学校4年まで学び、5年生からは峠を越え、船に乗って三木浦まで通学しました。
下校時には日用品を調達し担いで村に戻ったそうです。

村内は奥地と下地に別れ、奥地には多くの湧き水があり、庄屋の屋敷なども奥地にありました。
豊富な湧き水から水路を通して村内唯一の水田も庄屋屋敷のスグそばにある。
反して下地地区では水は貴重でわずかな湧き水を石をくりぬいた共同水槽に貯めて利用していたようです。

村の広さは東西南北数百メートルで、そのほとんどが住居や畑の石垣と石畳の通路からなる。
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村の一番海岸よりには鏡神社跡がある。
現在の三木神社にある奥の小さな鳥居は、鏡神社の移転時のものです。

明治時代、姓を名乗るようになり、盛松の住民は奥地に住むものはすべて「奥地」、下地に住むものはすべて「下地」を名乗ったそうです。
現在三木浦の苗字に「奥地」「下地」が多いのはそのためです。

海岸は直径1メートルほどの花崗岩の丸くて白い石がごろごろしている。
この石をゴロタ石と呼ぶ。
ゴロタ石海岸の両端はこの地方の海岸によく見られる柱状節理が発達して、多くの奇岩が見られる。
南側に少し行くと海食崖を人工的に削り海面付近まで通路がある。
最後の岩の斜面には人工的に削られた階段があり、その両脇には手すりのロープなどを固定する柱を立てる穴がいくつか見られる。
ただ波の荒いときには、とてもこの場所には船をつける事が出来なかったと想像される。
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この記事は、くまの体験企画さんが作成した資料を参考に作成しました。

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