哀愁の矢の川峠
「矢の川峠(矢ノ川峠)」と書いて「やのことうげ」と読む。私やのこ小僧も地元尾鷲からいろいろと情報発信しまっせ!  【 このページの文章、写真は無断で転用しないでください。もしご利用される場合ははやのこ小僧までご一報を!】

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この資料は、私が行なっている矢の川峠のツアー『哀愁の矢の川峠」で配布したものです。




昭和11年10月16日、尾鷲駅から矢の川峠を越えさらに飛鳥から評議峠を越えて、木本までの43kmの区間に省営バス紀南線が開通しました。
開通当初は1日6往復でしたが、昭和15年の資料を見ると5往復、昭和31年4往復、その後下り4便上り5便となります。職員は32名でバス12台、トラック2台で営業を開始しました。
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  開業当時の省営バス(尾鷲駅)
開業当初のバスは六甲A型、16人乗りを使用、戦時中は全国営業所で木炭車が導入される中、紀南線と長野県茅野営業所だけは峠の勾配の関係で、いすゞのディーゼルエンジンのバスを走らせていました。昭和24年、全国営業所にディーゼルバスが投入される中、初期ディーゼルの始動性等に悩まされてきた紀南線はガソリン車に変更、さらに昭和28年には全国に先駆けて新型ディーゼル車が投入されました。これにより以前のような新人ドライバーが急坂を登れなく、何度もトライするようなことは無くなりました。バスのカラーリングは何回か変わりました。青紫と小豆色があったようです。バスの先(ラジエターグリル)のカバーには動輪のマークが付いており、車台横にもはやはり動輪のマークが描かれていました、後にこの車体横の動輪のマークの中に燕マークが描かれます。

昭和28年台風により紀伊半島一帯が交通、通信ともに遮断され陸の孤島となりました。
運送路として紀南線のみが残された為、区内の車両要員の応援を得て1ヶ月間にわたり旅客はもちろん緊急物資、食料、復興資材の輸送などにあたりました。職員は不眠不休で職務に付き、無事この大輸送を完遂しました。

紀南線の職員は他の営業所と違い移動が殆どありませんでした。この険しい矢の川峠を安全にバスを運行する為に他の国鉄自動車営業所とは位置付けが違ったようです。尾鷲,熊野営業所ともファミリーのような結束感がありました。国鉄紀勢線の全通予定が迫ってくると、紀南線終焉まで「無事故で運行させよう」と言う機運がますます高まります。
結果昭和34年7月14日をもって紀南線廃止となるにあたり、実に23年間で走行距離1000万km以上,運んだ乗客1200万人、無事故の記録を達成したのです。
14日の閉所式には国鉄十河総裁が出席され関係者の表彰を行ないました。
その後職員は和歌山や関西の自動車営業所に転勤になりバラバラとなっていきました。
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国鉄十河総裁と共に、尾鷲営業所前にて閉所式集合写真
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2016/07/14(木) 01:48:09 | | #[ 編集]
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