哀愁の矢の川峠
「矢の川峠(矢ノ川峠)」と書いて「やのことうげ」と読む。私やのこ小僧も地元尾鷲からいろいろと情報発信しまっせ!  【 このページの文章、写真は無断で転用しないでください。もしご利用される場合ははやのこ小僧までご一報を!】

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この文章は冊子「想い出の矢ノ川峠」に掲載されたものです。




【省営バスを支えた男の物語】
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この写真は、大林さんが尾鷲車庫にて同僚がバスを整備しているところを撮影したものです


大林さんと始めてお会いしたのは平成十八年の冬、熊野で東映児童劇映画「道」の上映を行なう少し前の事でした。
知り合いの省営バスの車掌さんにお話を聞きに行ったのですが、その方が「当時の写真をたくさん撮っていた技工の大林さんをで呼んだるわい」と言って連絡をとってくれました。
間もなく自動車でいらした大林さんは、ハンティング帽をかぶった少しお洒落で実直そうな方でした。持ってきたアルバムを拝見すると、職場や尾鷲市内でのバスの様子、そして矢ノ川峠での雪の作業風景など、たくさんの資料とともに写真が貼り付けてありました。今となっては当時の様子をうかがう事ができる貴重な写真の数々です。

お名前は大林正巳さん、昭和三年十一月十八日生まれ。
現在奥さんと二人で尾鷲にお住まいです。
昭和十八年五月十五日 職業紹介所を通じて鉄道省松阪の管理部に傭人職(ようにんしょく)技工で入所。運転手や車掌は雇員職(こいんしょく)と呼ばれていました。辞書で調べてみますと、傭人職は「国に単純な労務に従事するため雇われた者」となっております。
大林さんいわく、「わしら技工があってのバスの安全運行なのに・・今やったら差別やなぁ・・」 当時技工は給料も低く大林さんの入所時の初任給は八五銭でした。昭和一八年六月一日から十一月三〇日まで委託生として米子の後藤工場で見習いを終え、鉄道省紀南線尾鷲自動車区に技工として配属されました。
当時尾鷲自動車区の事務所と車庫は、現在の紀北信用金庫本店と隣の岩崎ビルの場所にありました。向かって左側に事務所があり、その右側に給油スタンド、ピット(作業場)、車庫が並んでいました。
oobayasi0022車庫前発車オーライS33夏尾鷲駅発3
国鉄バス尾鷲自動車営業所の車庫

道を挟んで向かえ側は紀伊自動車(後の三重交通)の車庫があり(昭和一八年にはすでに車庫があった)、現在の港に向かう希望通りは無く小学校前の細い通りがバス通りでした。
oobayasi0021二階よりバスを見下ろす
事務所二階より尾鷲駅方面、左むかえの車庫は三重交通バスの車庫
大林さんからは戦中、終戦直後のお話が次々と飛び出してきます。
その表情からは悲壮感は読み取れず、命を張って仕事に打ち込んできた満足感の様なものが感じられます。
世の中では戦争がますます激しくなり、こんな片田舎の尾鷲でも戦々恐々とした状況でした。したがってバスの安全運行を維持するのは今の常識では計り知れないほど大変なものだったと思われます。

当時の作業は支給されたナッパ服と呼ばれる作業服上下と帽子、足には足袋と雪駄を履いていたそうです。「下駄をはいとる人もおったが、やっぱり足に密着するのと底が柔らかいで雪駄が一番良かったなぁ・・」大林さんからこんな言葉が出てくると、少し整備の仕事をやった事のある私にはビックリです。どう想像しても足袋と雪駄が整備士の履物とは思えないのです。今では1トンまで耐えられる安全靴を履くのが普通ですが、雪駄では作業中の小さい怪我は日常茶飯事だったでしょう。

鉄が不足し、部品がなかなか手に入らいうえにエンジンオイルの質が悪く、1ヶ所修理をすればすぐに違う箇所が故障する。そんなイタチごっこの様な毎日だったそうです。
矢ノ川峠から「足が出たから救援に来てくれ」と連絡あると、代行のバスとトラックを出し大林さんも救援に向かいました。「足が出た」とはエンジンが中で破損し、部品がエンジンケ-スを突き破ることを言いました。こうなると大変です。バスのエンジンは車体から下されてバラバラにされ、無い部品をどうするか、ケースの破損箇所をどうふさぐか試行錯誤しながら技工総出で修理です。
車両の板バネが折れたりすると、その板バネにパッチを当て繋ぎ合わせて再度取り付けて使いました。板バネに穴を開けるには硬くて通常のドリルでは歯が立たなかったので、すぐそばの福定鉄工所(熊野でしたら米本鉄工)でやってもらいました。他にも部品を自分たちで作る事が度々あったので、車庫裏には小さい鍛造所がありました。所詮その場しのぎの修理のため、同じ箇所が破損する事も度々あったようです。尾鷲で手におえないときは、バスを貨車に乗せ、京都の工場までまで修理に出しました。そうなるとバスは数週間戻ってきません。この様に修理が重なるとバスの運行に支障が出ることもありました。今では考えられないことですが、熊野側からのバスが四便中三便運休し一便しか運行できなかった事もあったということです。

全国の営業所では燃料不足のため木炭自動車が導入されていきました。その中で矢の川峠と長野県の茅野営業所だけが勾配の関係で、木炭自動車では運行できない為、力のあるディーゼルエンジンを使用しいました。一部アルコールエンジンも使われましたが、燃料ポンプがよく故障した為、ポンプを外し燃料タンクを運転席の天井の上に取り付けて、重力で燃料をエンジンまで落としてくるように改造しました。アルコールは火がつきやすく、整備の時は気を使ったそうです。

ディーゼルエンジンはかかりが悪く、特に冬は始動に何十分もかかることがありました。朝はまずエンジンの一番下にある、オイルのたまっている部分(オイルパン)を直接火で暖めます。エンジンにお湯をかけたり、空気の取り入れ口(吸気口)にたいまつを近づけて暖かい空気を送り込むなどして、やっと「ボロ、ボロ・・ブルルーン」とエンジンが始動します。
それでもバッテリーが弱っていてかからないと、今度は職員総出で押しがけです。車庫からバスを通りに出して、今の尾鷲小学校の横までエッチラホッチラ押していきます。下り坂の急なところにきたら、後ろから全力で押し、一人は運転席で舵を取り、一人はボンネットの上に乗ってたいまつを吸気口に当てます。勢いが付いたところで運転手がクラッチをつなぎエンジン始動。めでたしめでたし・・・ こんな風景が毎日のように見られたようです。
場合によっては他の車両でバスを尾鷲駅まで引っ張っていき、駅からの下り坂でこの朝のイベントは行なわれました。
こうしてエンジンがかかってもバッテリが弱っているため、アクセルから足を離すとすぐにエンジンが止まってしまいます。そこで運転手は常にアクセルを踏みながら下りはサイドブレーキと左足でブレーキを踏んで運行をしたようです。このような神業的な運転は、新しくバッテリーが交換されるまで続いたのでした。
こんな調子ですからバスは運休したり定刻どおりの発車、到着ができず、お客はしばしば駅に足止めをくう事になりました。そんな訳で尾鷲駅前の旅館「胡蝶館」や「大和旅館」は繁盛していたようです。
修理中のバスのエンジンテストは、矢ノ川峠入り口の二つ木屋あたりまで走りました。このあたりが四kmの坂になっていて、ここでエンジンの調子を見たそうです。日に何度も部品をとっかえひっかえ走ることもありました。「近所の子供が洗車場あたりで遊んどってなぁ、試乗の時に「のせてーのせてー」とせがまれてよう乗せたったなぁ」。
今のようにそう簡単に車に乗ることはできない時代です。子供たちはたいそう喜んだことでしょう。

終戦直前、昭和二十年六月六日に大雨がありました。前年の東南海地震で地盤が緩んでいた為、この大雨で矢ノ川峠はいたる所で道路が寸断されました。
復旧には時間がかかり、長い間バスも運休しました。このとき大林さんは前年より熊野勤務になっており、休暇を貰って実家の飯南町に帰るのに矢の川峠を歩いて越えています。「バスが無いから歩いて尾鷲まで行ったな。峠からは近道やもんでデンガラを転げながら下りたわぁ・・」
いたる所で崩れているバス道を歩くよりも、江戸時代から使われていたこの獣道のほうがはるかに早く楽に行けたのでしょう。帰りは近鉄を使って大阪から紀伊半島をぐるっと回って熊野まで戻ったそうです。
間もなく終戦をむかえます。戦後は進駐軍の配下に置かれ、車両の左右、動輪マークの上には「GOVERNMENT RAILWAY」の文字が入れられました。
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この写真はネガを逆さまにプリントしてしまったようでアルファベットが反対です、写っているのは大林さんで尾鷲の浜にバスで泳ぎに行ったときのものです。でも私用でバスを使ってたなんて・・・
バスのボディーには燕マークではなく、動輪が描かれています。省営バスの時代は動輪が描かれていたようです。


又この頃には車体横のボディーに「SPRAY」と言う文字が書かれ、その下に車内の消毒を行なった日時を書き込んでいました。終戦後の不衛生な状況に対処したものと思われます。これらは昭和二七年頃まで進駐軍の指示で行なわれたようです。


大林さんの趣味は写真で、使っていたカメラは昭和二十九年頃に購入したリコーフレックス、当時9800円でした。
早川写真館のクラブに入って数々のコンテストに入賞してます。
写真の中にコンテストには応募しなかったものの、自慢の写真が一枚あります。
雪の矢の川峠大林006x
紀伊長島の機関区から石炭ガラをもらってきて冬になると峠の要所要所に積み上げていたようです、積雪時にはこの石炭ガラを道路工夫や職員が道路にまき道路のグリップを確保しました

雪景色の矢ノ川峠で、職員が路肩に積んである融雪のための石炭ガラを道に撒いています。その横を徐行しながら尾鷲行きのバスが二台走りぬけようとしてます。寒い中、黙々と仕事をしている職員と、まさに安全を確かめながらゆっくりゆっくり走り抜けようとしているバスの様子が写っています。このように積雪時には道路工夫だけでなく、職員も一緒にバスの安全運行を助けました。この写真は二十三年間無事故で運行してきた省営バスの精神を見事に表現しているように思われます。

大林さんは若干十五才から昭和三十四年七月十四日紀南線廃止までの実に十六年間をバスの技工を通して、紀南線の安全運行に貢献してきました。この十六年間の紀南線での仕事はまさに大林さんの青春そのものだったとも言えるのではないのでしょうか。
大林さんとのお話で「わしはカーブやシュートじゃなくて直球が好きなんや」そんな言葉が出てきました。まがった事が嫌いで自分には厳しく、でも人には優しい、そんな人柄が伺えます。
このような縁の下の力持ち的存在の方々のお蔭で、紀南線二十三年間無事故の記録が達成できたのではないのでしょうか。

最後に、長い時間お話を聞かせていただいた大林さんご夫婦にお礼を申し上げます。ありがとうございました。

平成二十一年三月十八日
尾鷲市  福田晃久
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