哀愁の矢の川峠
「矢の川峠(矢ノ川峠)」と書いて「やのことうげ」と読む。私やのこ小僧も地元尾鷲からいろいろと情報発信しまっせ!  【 このページの文章、写真は無断で転用しないでください。もしご利用される場合ははやのこ小僧までご一報を!】

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さて、先日お約束しました峠茶屋の主、稲田のぶへさんの手記を掲載いたします。

1966年【昭和42年】7月の尾鷲広報【しみん・ずいひつ】に掲載されたものです。
以下の文章は原文のとおり記載しております。
脱字などありますがご了承ください。

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 日頃、はがき1枚を書くことさえ辛い私に峠の思い出を書けとのお申し付け、文章などまとまる筈もありませんが、万止むおえず・・・・。と一大決心。
 今は亡き母に進められて矢の川へ茶屋を出したのが昭和23年4月、私はあの荒れ果てた屋敷跡へ、竹の柱に茅の屋根ならぬ桜の木と檜の葉をのせ、店台には石を並べその上にお菓子の箱を載せこれで茶店が出来上がり。
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これを人々は、"狐小屋"と言って大そう喜んで下さいました。峠では水を木の東側へ七百米位下がったところまで汲みに行きますが、ある日犬を連れて棒の両端にバケツを付けて担ぎ、二曲りほどして向こうを見ると、大きな【私には五十貫も有るかと思った】猪が、四,五匹の子猪と,何かを漁っているではありませんか。それを見た犬は一目散にとび去って行きました。
私もバケツをガチャガチャいわせながらかけ出しました。犬と猪親子はぐるぐる廻りながら格闘しています。
私は夢中でその場にバケツを投げ出すと、その物音に驚いた猪親子は崖を真直ぐかけ登って逃げて行きます。犬はそれを死に物狂いで追いかけてゆきます。
私はその子猪が余りにも可愛かったので何とかして一匹捕まえたく、犬が必ず追詰めて来るだろうと祈るような気持ちで、エプロンをぬぎ岩かげに隠れて待ちかまえていました。あんのじょう一匹の子猪を追いつめてきました。私はエプロンを拡げて押さえ込み、生捕って後ろのバケツに入れ、前のバケツには水を汲んで胸をドキドキさせながら帰りを急ぎました。茶屋まであと一坂という所まで来ると人が七,八人”オバサーンオバサーン"と呼んでおられます。恥ずかしいけど出ないわけにも行きません。田村先生他七,八人の代議士さん達でした。私の姿をみて、さすが矢ノ川のオバサンだ、良い土産話が出来たと大喜びで帰られました。
明朝お客様の一人が新聞を持って来てくれました。
それにはなんと大きな見出しで"茶店のオバサンが二十貫も有る大猪と格闘の末、生捕った"と出ています。評判になった事は言うまでもありませんが、私の生捕ったのは只の一貫五十匁。
田村先生の他意なのいユーモラスなご投稿の結果でした。
この様な事は長かった峠の生活のほんの一端です。
その後強盗に襲われ命からがら竹藪に逃げ込み、難を逃れた事があります。警察に連絡も出来ないまま、竹薮で一夜を明かしたものでしたが犯人はあがらなかった為、狂言では?と言われたり書かれたりしました。抗議はしたものの結局は泣き寝入り。今でさえも、涙が出るほど、口惜しく思い出されます。
矢の川だけは清らかな安住の地と、山の中に楽しく生きてきた私にとってただ一つのいやな思い出でした。亡くなった吉川英治先生をはじめいろいろな方との思い出を追う時、楽しく、苦しく悲しかった十一年間が、まるできのうのように思えます。
"思い出は多い程幸せだ"という誰かの言葉をしみじみと思い出しました。

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最後の締めくくりにあるように、のぶえさんは矢の川峠にたくさんの思い出をもらってきっと幸せな人生だったのでしょう。
昭和三十四年七月の省営バスの廃止後峠を下り、その後また矢の川峠に戻りましたが、長くはつづかなかったようです。
後に尾鷲市内の中川橋のたもとで、娘さん夫婦と火力建設工事終了頃まで"矢の川食堂"を営みました。
20071007053014.jpg


こうして峠もいつしか茶屋もなくなり、長いトンネルを持った新道へと切り替わる少しの間、静かな余生を送ることになります.
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