哀愁の矢の川峠
「矢の川峠(矢ノ川峠)」と書いて「やのことうげ」と読む。私やのこ小僧も地元尾鷲からいろいろと情報発信しまっせ!  【 このページの文章、写真は無断で転用しないでください。もしご利用される場合ははやのこ小僧までご一報を!】

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本日、矢の川峠の映画「道」の尾鷲での上映に関しての座談会をやりました。
集ったのは色々な団体や行政職員の方がた10名。
話し合いの結果、尾鷲での上映実行委員会を立ち上げることで全員一致。
名前は「矢の川峠おもいでの会」に決定。
結局、今回参加された方全員が実行委員会に入っていただける事になりました。
実行委員長は不本意ながら、やはり言いだしっぺの私に・・
できるのかなぁ~・・


とりあえず尾鷲での上映に向けて動き始めました。
具体的に活動が始まるのは1月11日以降となります。
上映日時が決まりましたらまたアップします。
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東映児童劇映画「道」上映実行委員会より上映用DVDが送ってきました。これでいつでも上映会ができます。

今度、尾鷲上映実行委員会立ち上げのための準備座談会を開きます。
できればすぐに上映実行委員会を立ち上げ、上映日程などを決めたいのですが、”人”の問題がやっかいです。
どこか仕切ってくれるところが出てくるといいんですが・・

熊野では来年度に製作する矢の川峠の冊子の準備に入ります。
新たな資料集めと、聞き取り調査も始まります。
しっかりとした資料集になりますので、興味のある方はぜひ購入お願い致します。

先日12月6日の熊の上映会の最終報告がありました。
熊野市民会館は830名の定員なのですが、実際に入場された方は950名で、入場をお断りして帰られた方は100名ほどおられました。
1050名もの方々に来場していただきました。
この場を借りてお礼を申し上げます。
ありがとうございます。

私”やのこ小僧”は東紀州の中心部尾鷲に住んでます。
バイクが大好きで、東紀州の海や山が大好きなおじさんです。

物心ついた頃から一人歩きが好きで、よく迷子になると家の住所を言って道を教えてもらって帰ったものでした。
森の中や田んぼのあぜ道を歩きながら、この見える範囲のその向こうは何があるのか?という探究心だけで迷子になるまで歩き続けたものでした。
おじさんになる現在までもその染み付いた悪い?癖はなくならず、
山に登ったりバイクで見知らぬ土地まで走ったりしてきました。
”峠”は手前の地の最後、これからの地の最初でありまた2つの地をむすび人の思いを集結する所でもあると思うのです。
そんな峠にいつしか魅入られ、わざわざ旧道などを選んで越えるようになりました。
その峠のなかでも矢の川峠は私にもっとも身近で重要な存在なのです。

今回矢の川峠の映画「道」の話を聞いた時は、本当にうれしく思い、
上映時の反響にまたまた感動!
この勢いで”やのこ”ブームをこの地域に起こしてやろうと思ってます。

地元新聞にも掲載されましたが、御浜町の中央公民館で2月16日(金)予定で、「矢の川峠」児童劇映画「道」の再上映がおこなわれる予定です。
熊野市民会館で多くの方が感動された、当時の国鉄バス運転手久保芳治さんのパネルトークもおこなわれる予定です。
熊野市民会館でご覧いただけなかった方、ぜひお越し下さい。
詳しい情報がわかり次第、「くまどこ」の新着情報にアップいたします。

江戸時代

徳川時代初頭
那智より先に本宮へ向かう参拝者が主として通った

享保11年(1726)
幕府の薬草調査役人が越えた


明治時代

3年、(1870) 2月
浦上キリシタン宗徒32名が、奥熊野へ流刑され、矢の川峠を越え、尾鷲相賀、長島の各組へ6人割り当てられる。

13年(1880) 3月1日
松坂より矢の川峠を越え南牟婁郡御船村に至る熊野街道を一等道路に格付けし県支弁道路に編入する。 (第一次改修)

18年(1885) 4月5
三重県知事石井邦酖氏が、尾鷲地域(南北牟婁郡)の熊野街道を車道改修のため視察し、直ちに工事着手される。尾鷲―相賀間は、天狗倉山の半島を一周するコースで渡鹿-水地―天満を経由して北川橋に(明治19年4月着工)、尾鷲―木本間は二ッ木屋―大橋―小坪―矢の川峠経由の全線トンネルのないルートとなる。

19年(1881) 4月矢の川峠 新熊野街道着工

21年(1888) 5月2日
矢の浜―二ツ木屋―大橋―七曲りー小坪―矢の川峠の経路で車道として完成する。

43年(1910) 2月
歩兵第51連隊の一部が矢の川峠を経て尾鷲に入り伊勢に向かう。

大正時代

5年(1916)
紀州自動車株式会社が設立

9年(1920)
尾鷲自動車株式会社が設立

10年(1921) 8月
尾鷲自動車〔株〕が矢の川峠道を拡張するため、町有土地を無償提供する。

11年(1922) 7月
尾鷲自動車〔株〕は尾鷲―木本間の定期運行を開始する。〔危険のため夏期のみ運転〕

12年(1923) 6月
矢の川峠道路視察のため柴田知事が来町する。

    7月県道尾鷲―木本間の第二次改修で柴田善三郎三重県知事は、矢の川峠道路視察のため来町する。

13年(1924) 6月9日
紀州自動車株式会社と尾鷲自動車株式会社が合併、紀伊自動車株式会社となる。(本社尾鷲北浦)当初6人乗りフォード10台所有、尾鷲ー熊野間1日2便(4月から10月のみ運行)

15年(1926)
紀伊自動車株式会社の所有車両フォード31台

昭和時代

2年 1月
矢の川峠安全索道敷設工事着工。(大橋ー小坪間1185m)

5月
矢の川峠安全索道敷設工事完成。(標高差479m、敷設費用7万円)2人乗りで1時間で上下40人を輸送した。

9年(1934) 9月24日
県道 津―木本線、熊野街道第二次改修矢の川道路開さく工事(二ッ木屋-南谷-小坪―小坪トンネル上―矢の川峠)起工する。

12月19日
紀勢東線が尾鷲駅まで開通
矢の川峠第二次改修始まる。南谷回りの旧道着工
11年(1936) 10月
矢の川峠南谷回りの旧道完成 工費60万円
矢の川峠明治道及び安全索道は廃止される


10月16日
省営(国鉄)バス 尾鷲―木本間(45km)が開通し、紀南線と呼ばれる。これにより乗り物で紀伊半島一巡できるようになる。(1日に4本、所要時間2時間45分)

15年(1940) 3月
県道津―木本線矢の川峠開削を記念し、矢の川南谷に、「矢の川峠開削記念碑」を設立する。(29代、三重県知事廣瀬久忠書)

19年
紀伊自動車株式会社は三重交通株式会社に統合

23年 夏
矢の川峠茶屋開店 稲田のぶへさんと娘さんが造る 紀勢本線全通記念特集(日本国有鉄道岐阜工事局)P85

25年(1950) 12月11日
吉川英治「新平家物語」の取材旅行で、杉本健吉とともに来鷲。 「日本の風土記 志摩、熊野時」
五丈旅館に宿泊、太田町長や婦人会のおもてなしを受け、町長「尾鷲節」を披露、宿で「海明かり障子のうちの水仙花」など詠む。翌日車で矢の川峠を越える。峠の茶屋で、「茶売女の乳も涸れがてよ冬の山」等読む

27年(1952)
この年菊田一夫氏作「さくらんぼ大将」がNHKから放映され、その中で尾鷲の風景(矢の川峠、中村山、ぶり)が数回にわたり紹介される。

29年(1954) 10月29日
鉄道工事向井飯場の作業員が、矢の川峠の飲食店に侵入し強盗傷害事件おこす。

34年(1959)  6月27,28,29日
土木事務所が尾鷲トンネル南口と矢の川峠で、3昼夜ぶっ通しで交通量調査を行なう。
紀勢本線全通前とその後での資料を作るためと、日に100台以上の交通量があれば災害時に流された木橋を復旧する場合、永久橋を架けることができるため。

(三日間の平均)
尾鷲トンネル南口がオートバイ5台、オート三輪7台、小型乗用車27台、普通34台、バス49台、小型貨物自動車107台、普通8台、大型83台、自転車17台、歩行者12人、オート三輪以上の車が180.3台。
矢の川峠がオートバイ96台、オート三輪61台、小型乗用車15台、普通12台、バス20台、小型貨物自動車49台、普通20台、大型58台、自転車1台、歩行者1人、オート三輪以上の車が169.3台

7月14日
昭和11年より23年間無事故を誇った矢の川越え紀南国鉄バスが廃止される。

7月15日
紀勢線全通 賀田駅ー二木島駅間開通

38年(1963) 4月10日
朝日新聞ーS380410 この日付記事に「トンネル3つ作る/国道42号線新道路来年度から着工/矢の川峠難所の悩み解消へ/=(昭和37年11月から地質調査、航空調査を進めていたが39年度から着工する予定) 

40年(1965) 11月
国道42号線尾鷲トンネル(海山ー尾鷲間)竣工開通し、12月矢の川峠改修に着工する。

44年 4月6日
新矢の川峠改築工事竣工 総工費約30億円 尾鷲ー熊野間は2時間45分から45分に短縮される
始めまして! このブログ管理してるやのこ小僧と申します。
先日熊野市で矢ノ川峠を題材にした「道」という映画を上映しました。
熊野市民会館は定員820人なんですが、なんと立ち見や通路に座る方まで・・
結局入れなくて帰っていただいた人も数十人。
約1,000人の方が来場してくれて、大成功でした。
上映実行委員会の方、資料収集に協力してくれたみなさまご苦労様。
入れなくて帰られた方誠に申し訳ありませんでした!

これほど矢の川峠に沢山の方が思いを寄せられているのかと、改めてビックリ!(@_@;)
このブログを利用して「新たな矢の川峠伝説を作りたい!」っと思ったやのこ小僧なのです。

「矢の川峠」と書いて「やのことうげ」と読む。「矢ノ川峠」とも書きますが、このブログでは「矢の川峠」で統一します。

東紀州尾鷲の矢の川の最上流部の位置し、古く江戸時代から本宮に向かう熊野古道としても使われていました。
明治に入ってからは尾鷲熊野を結ぶ重要な県道として、その後国道となり近代の経済発展に貢献してきました。
そんな矢の川峠がたくさんの人たちの心に、さまざまな思い出を残し、今ひっそりとその余生を送っております。
現在では全国から酷道マニアや、峠を走るライダーたちに注目されて訪れる方は絶えません。
私やのこ小僧はそんな矢の川峠にたくさん哀愁を感じるわけなのです。
昔の人もちょっと昔の人も、そして最近の人も、矢の川峠に何か思いのある人のためにこのブログを立ち上げます。
皆さんどんどん情報を寄せてくださいな。
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上から峠茶屋の稲田のぶへさん、尾鷲側から省営バスと矢の川峠を望む
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