哀愁の矢の川峠
「矢の川峠(矢ノ川峠)」と書いて「やのことうげ」と読む。私やのこ小僧も地元尾鷲からいろいろと情報発信しまっせ!  【 このページの文章、写真は無断で転用しないでください。もしご利用される場合ははやのこ小僧までご一報を!】

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省営バス(のちの国鉄バス)は鉄道省に属し、バスといえどもその精神は鉄路と鉄輪にあり。今回はそんな話です

紀南線の事務所は尾鷲と木本にありましたが、それぞれの事務所での朝礼には必ず全員で歌う歌がありました。
それは 「鐵道精神の歌」-轟け鐵輪!!

いかにもっていう題名です。
これは昭和初期に作られた歌のようですが、鉄道省から国鉄に変わっても歌い継がれてきました。
現在民営化した後の状況は分かりませんが、すべての職員は歌詞を覚えて朝礼で歌っていた時代があったようです。(昭和60年代は歌っていたと聞きました)

この歌の作者は、作詞・北原白秋、作曲・山田耕筰のこの時代の黄金コンビです。
この二人の作品は様々なジャンルに及び現在も多く歌い継がれています。
かきに歌詞とYoucTubeの動画を上げておきます。
動画は歌だけしか入っておりいません。
がかなり古いもののようで音声はあまり鮮明ではありませんがその分雰囲気あります。

歌詞の中に「国鉄」が連呼されているのが笑えますが、鉄道省の頃から「国鉄」と言われていたのですね。
他に「大家族二十万人」という連帯感を表すものなどあって歌詞を見ていると面白いです。



「鐵道精神の歌」-轟け鐵輪

    北原白秋作詞
    山田耕筰作曲

一、轟け鐵輪 我が此の精神
 輝く使命は儼(げん)たり響けり
 栄えある交通 思へよ國運
 奉公ひとへに 身をもて献げむ
 國鐵 國鐵 國鐵 國鐵
 いざ奮へ我等 我等ぞ
 大家族二十萬人 奮へ我等

二、轟け鐵輪 我が此の團結
 輝く誠は恥(こう)たりとほれり
 栄えあれ勤労 誓へよ協力
 敬愛あらたに 和しつつ進まん
 國鐵 國鐵 國鐵 國鐵
 いざ奮へ我等 我等ぞ
 大家族二十萬人 奮へ我等

三、轟け鐵輪 我が此の傅統
 輝く魂(たまし)は 凛(りん)たり匂へり
 栄えあれ公正 鍛へよ質實
 修養朝夜(ちょうや)に 知能を磨かむ
 國鐵 國鐵 國鐵 國鐵
 いざ奮へ我等 我等ぞ
 大家族二十萬人 奮へ我等


http://www.youtube.com/watch?v=zDHBxQM_1sE
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まだ確認はしておりませんが、矢の川峠はおそらく行けないと思います・・
暇ができたら行ってきますが、車では行けんでしょうね。

終戦間際に紀伊半島全域で台風による甚大な豪雨災害がありました。
当時は鉄道省紀南線の職員が総出で鉄道不通区間の代行運転を行いました。
多くの救難物資の輸送と人員輸送で不眠不休の日々が続いたということです。
この地域は雨に強いのでその時にも被害が無く、最前線になって救援を行ったのでしょう。
この資料は、私が行なっている矢の川峠のツアー『哀愁の矢の川峠」で配布したものです。




昭和11年10月16日、尾鷲駅から矢の川峠を越えさらに飛鳥から評議峠を越えて、木本までの43kmの区間に省営バス紀南線が開通しました。
開通当初は1日6往復でしたが、昭和15年の資料を見ると5往復、昭和31年4往復、その後下り4便上り5便となります。職員は32名でバス12台、トラック2台で営業を開始しました。
012.jpg
  開業当時の省営バス(尾鷲駅)
開業当初のバスは六甲A型、16人乗りを使用、戦時中は全国営業所で木炭車が導入される中、紀南線と長野県茅野営業所だけは峠の勾配の関係で、いすゞのディーゼルエンジンのバスを走らせていました。昭和24年、全国営業所にディーゼルバスが投入される中、初期ディーゼルの始動性等に悩まされてきた紀南線はガソリン車に変更、さらに昭和28年には全国に先駆けて新型ディーゼル車が投入されました。これにより以前のような新人ドライバーが急坂を登れなく、何度もトライするようなことは無くなりました。バスのカラーリングは何回か変わりました。青紫と小豆色があったようです。バスの先(ラジエターグリル)のカバーには動輪のマークが付いており、車台横にもはやはり動輪のマークが描かれていました、後にこの車体横の動輪のマークの中に燕マークが描かれます。

昭和28年台風により紀伊半島一帯が交通、通信ともに遮断され陸の孤島となりました。
運送路として紀南線のみが残された為、区内の車両要員の応援を得て1ヶ月間にわたり旅客はもちろん緊急物資、食料、復興資材の輸送などにあたりました。職員は不眠不休で職務に付き、無事この大輸送を完遂しました。

紀南線の職員は他の営業所と違い移動が殆どありませんでした。この険しい矢の川峠を安全にバスを運行する為に他の国鉄自動車営業所とは位置付けが違ったようです。尾鷲,熊野営業所ともファミリーのような結束感がありました。国鉄紀勢線の全通予定が迫ってくると、紀南線終焉まで「無事故で運行させよう」と言う機運がますます高まります。
結果昭和34年7月14日をもって紀南線廃止となるにあたり、実に23年間で走行距離1000万km以上,運んだ乗客1200万人、無事故の記録を達成したのです。
14日の閉所式には国鉄十河総裁が出席され関係者の表彰を行ないました。
その後職員は和歌山や関西の自動車営業所に転勤になりバラバラとなっていきました。
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国鉄十河総裁と共に、尾鷲営業所前にて閉所式集合写真
この文章は冊子「想い出の矢ノ川峠」に掲載されたものです。




【省営バスを支えた男の物語】
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この写真は、大林さんが尾鷲車庫にて同僚がバスを整備しているところを撮影したものです


大林さんと始めてお会いしたのは平成十八年の冬、熊野で東映児童劇映画「道」の上映を行なう少し前の事でした。
知り合いの省営バスの車掌さんにお話を聞きに行ったのですが、その方が「当時の写真をたくさん撮っていた技工の大林さんをで呼んだるわい」と言って連絡をとってくれました。
間もなく自動車でいらした大林さんは、ハンティング帽をかぶった少しお洒落で実直そうな方でした。持ってきたアルバムを拝見すると、職場や尾鷲市内でのバスの様子、そして矢ノ川峠での雪の作業風景など、たくさんの資料とともに写真が貼り付けてありました。今となっては当時の様子をうかがう事ができる貴重な写真の数々です。

お名前は大林正巳さん、昭和三年十一月十八日生まれ。
現在奥さんと二人で尾鷲にお住まいです。
昭和十八年五月十五日 職業紹介所を通じて鉄道省松阪の管理部に傭人職(ようにんしょく)技工で入所。運転手や車掌は雇員職(こいんしょく)と呼ばれていました。辞書で調べてみますと、傭人職は「国に単純な労務に従事するため雇われた者」となっております。
大林さんいわく、「わしら技工があってのバスの安全運行なのに・・今やったら差別やなぁ・・」 当時技工は給料も低く大林さんの入所時の初任給は八五銭でした。昭和一八年六月一日から十一月三〇日まで委託生として米子の後藤工場で見習いを終え、鉄道省紀南線尾鷲自動車区に技工として配属されました。
当時尾鷲自動車区の事務所と車庫は、現在の紀北信用金庫本店と隣の岩崎ビルの場所にありました。向かって左側に事務所があり、その右側に給油スタンド、ピット(作業場)、車庫が並んでいました。
oobayasi0022車庫前発車オーライS33夏尾鷲駅発3
国鉄バス尾鷲自動車営業所の車庫

道を挟んで向かえ側は紀伊自動車(後の三重交通)の車庫があり(昭和一八年にはすでに車庫があった)、現在の港に向かう希望通りは無く小学校前の細い通りがバス通りでした。
oobayasi0021二階よりバスを見下ろす
事務所二階より尾鷲駅方面、左むかえの車庫は三重交通バスの車庫
大林さんからは戦中、終戦直後のお話が次々と飛び出してきます。
その表情からは悲壮感は読み取れず、命を張って仕事に打ち込んできた満足感の様なものが感じられます。
世の中では戦争がますます激しくなり、こんな片田舎の尾鷲でも戦々恐々とした状況でした。したがってバスの安全運行を維持するのは今の常識では計り知れないほど大変なものだったと思われます。

当時の作業は支給されたナッパ服と呼ばれる作業服上下と帽子、足には足袋と雪駄を履いていたそうです。「下駄をはいとる人もおったが、やっぱり足に密着するのと底が柔らかいで雪駄が一番良かったなぁ・・」大林さんからこんな言葉が出てくると、少し整備の仕事をやった事のある私にはビックリです。どう想像しても足袋と雪駄が整備士の履物とは思えないのです。今では1トンまで耐えられる安全靴を履くのが普通ですが、雪駄では作業中の小さい怪我は日常茶飯事だったでしょう。

鉄が不足し、部品がなかなか手に入らいうえにエンジンオイルの質が悪く、1ヶ所修理をすればすぐに違う箇所が故障する。そんなイタチごっこの様な毎日だったそうです。
矢ノ川峠から「足が出たから救援に来てくれ」と連絡あると、代行のバスとトラックを出し大林さんも救援に向かいました。「足が出た」とはエンジンが中で破損し、部品がエンジンケ-スを突き破ることを言いました。こうなると大変です。バスのエンジンは車体から下されてバラバラにされ、無い部品をどうするか、ケースの破損箇所をどうふさぐか試行錯誤しながら技工総出で修理です。
車両の板バネが折れたりすると、その板バネにパッチを当て繋ぎ合わせて再度取り付けて使いました。板バネに穴を開けるには硬くて通常のドリルでは歯が立たなかったので、すぐそばの福定鉄工所(熊野でしたら米本鉄工)でやってもらいました。他にも部品を自分たちで作る事が度々あったので、車庫裏には小さい鍛造所がありました。所詮その場しのぎの修理のため、同じ箇所が破損する事も度々あったようです。尾鷲で手におえないときは、バスを貨車に乗せ、京都の工場までまで修理に出しました。そうなるとバスは数週間戻ってきません。この様に修理が重なるとバスの運行に支障が出ることもありました。今では考えられないことですが、熊野側からのバスが四便中三便運休し一便しか運行できなかった事もあったということです。

全国の営業所では燃料不足のため木炭自動車が導入されていきました。その中で矢の川峠と長野県の茅野営業所だけが勾配の関係で、木炭自動車では運行できない為、力のあるディーゼルエンジンを使用しいました。一部アルコールエンジンも使われましたが、燃料ポンプがよく故障した為、ポンプを外し燃料タンクを運転席の天井の上に取り付けて、重力で燃料をエンジンまで落としてくるように改造しました。アルコールは火がつきやすく、整備の時は気を使ったそうです。

ディーゼルエンジンはかかりが悪く、特に冬は始動に何十分もかかることがありました。朝はまずエンジンの一番下にある、オイルのたまっている部分(オイルパン)を直接火で暖めます。エンジンにお湯をかけたり、空気の取り入れ口(吸気口)にたいまつを近づけて暖かい空気を送り込むなどして、やっと「ボロ、ボロ・・ブルルーン」とエンジンが始動します。
それでもバッテリーが弱っていてかからないと、今度は職員総出で押しがけです。車庫からバスを通りに出して、今の尾鷲小学校の横までエッチラホッチラ押していきます。下り坂の急なところにきたら、後ろから全力で押し、一人は運転席で舵を取り、一人はボンネットの上に乗ってたいまつを吸気口に当てます。勢いが付いたところで運転手がクラッチをつなぎエンジン始動。めでたしめでたし・・・ こんな風景が毎日のように見られたようです。
場合によっては他の車両でバスを尾鷲駅まで引っ張っていき、駅からの下り坂でこの朝のイベントは行なわれました。
こうしてエンジンがかかってもバッテリが弱っているため、アクセルから足を離すとすぐにエンジンが止まってしまいます。そこで運転手は常にアクセルを踏みながら下りはサイドブレーキと左足でブレーキを踏んで運行をしたようです。このような神業的な運転は、新しくバッテリーが交換されるまで続いたのでした。
こんな調子ですからバスは運休したり定刻どおりの発車、到着ができず、お客はしばしば駅に足止めをくう事になりました。そんな訳で尾鷲駅前の旅館「胡蝶館」や「大和旅館」は繁盛していたようです。
修理中のバスのエンジンテストは、矢ノ川峠入り口の二つ木屋あたりまで走りました。このあたりが四kmの坂になっていて、ここでエンジンの調子を見たそうです。日に何度も部品をとっかえひっかえ走ることもありました。「近所の子供が洗車場あたりで遊んどってなぁ、試乗の時に「のせてーのせてー」とせがまれてよう乗せたったなぁ」。
今のようにそう簡単に車に乗ることはできない時代です。子供たちはたいそう喜んだことでしょう。

終戦直前、昭和二十年六月六日に大雨がありました。前年の東南海地震で地盤が緩んでいた為、この大雨で矢ノ川峠はいたる所で道路が寸断されました。
復旧には時間がかかり、長い間バスも運休しました。このとき大林さんは前年より熊野勤務になっており、休暇を貰って実家の飯南町に帰るのに矢の川峠を歩いて越えています。「バスが無いから歩いて尾鷲まで行ったな。峠からは近道やもんでデンガラを転げながら下りたわぁ・・」
いたる所で崩れているバス道を歩くよりも、江戸時代から使われていたこの獣道のほうがはるかに早く楽に行けたのでしょう。帰りは近鉄を使って大阪から紀伊半島をぐるっと回って熊野まで戻ったそうです。
間もなく終戦をむかえます。戦後は進駐軍の配下に置かれ、車両の左右、動輪マークの上には「GOVERNMENT RAILWAY」の文字が入れられました。
oobayasi-00062.jpg
この写真はネガを逆さまにプリントしてしまったようでアルファベットが反対です、写っているのは大林さんで尾鷲の浜にバスで泳ぎに行ったときのものです。でも私用でバスを使ってたなんて・・・
バスのボディーには燕マークではなく、動輪が描かれています。省営バスの時代は動輪が描かれていたようです。


又この頃には車体横のボディーに「SPRAY」と言う文字が書かれ、その下に車内の消毒を行なった日時を書き込んでいました。終戦後の不衛生な状況に対処したものと思われます。これらは昭和二七年頃まで進駐軍の指示で行なわれたようです。


大林さんの趣味は写真で、使っていたカメラは昭和二十九年頃に購入したリコーフレックス、当時9800円でした。
早川写真館のクラブに入って数々のコンテストに入賞してます。
写真の中にコンテストには応募しなかったものの、自慢の写真が一枚あります。
雪の矢の川峠大林006x
紀伊長島の機関区から石炭ガラをもらってきて冬になると峠の要所要所に積み上げていたようです、積雪時にはこの石炭ガラを道路工夫や職員が道路にまき道路のグリップを確保しました

雪景色の矢ノ川峠で、職員が路肩に積んである融雪のための石炭ガラを道に撒いています。その横を徐行しながら尾鷲行きのバスが二台走りぬけようとしてます。寒い中、黙々と仕事をしている職員と、まさに安全を確かめながらゆっくりゆっくり走り抜けようとしているバスの様子が写っています。このように積雪時には道路工夫だけでなく、職員も一緒にバスの安全運行を助けました。この写真は二十三年間無事故で運行してきた省営バスの精神を見事に表現しているように思われます。

大林さんは若干十五才から昭和三十四年七月十四日紀南線廃止までの実に十六年間をバスの技工を通して、紀南線の安全運行に貢献してきました。この十六年間の紀南線での仕事はまさに大林さんの青春そのものだったとも言えるのではないのでしょうか。
大林さんとのお話で「わしはカーブやシュートじゃなくて直球が好きなんや」そんな言葉が出てきました。まがった事が嫌いで自分には厳しく、でも人には優しい、そんな人柄が伺えます。
このような縁の下の力持ち的存在の方々のお蔭で、紀南線二十三年間無事故の記録が達成できたのではないのでしょうか。

最後に、長い時間お話を聞かせていただいた大林さんご夫婦にお礼を申し上げます。ありがとうございました。

平成二十一年三月十八日
尾鷲市  福田晃久
先日バイクで矢の川峠にふらっと行ってきました。
以前トレッキング前の下見で見つけていた、㌔ポストを写真に収めてきましたので公開します。

この㌔ポスト、鉄道マニアの方はぴんと来たと思いますが、列車に乗って線路脇をよく見ているといろんな標識に混じって、xxkmと書いた四角いポールを見かけることがあります。
これが㌔ポストです。

やはり鉄道省の営業バスだけあって紀南線の路線沿線にも㌔ポストがあったようです。
偶数㌔ごとのたっていたようですが、ここ矢の川峠では峠から熊野側に数百メートル下った山側に一本だけ残っているのが確認できました。


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この数字は”18”となっているので、基点の尾鷲駅から18kmの場所なのでしょう、

皆さんもトレッキングやバイク自転車などで峠を越えるときは、こんな遺跡を少しだけ気にしてやってください。
ただしくれぐれも手を触れないようにお願いいたします。
長い年月で塗料も風化して、触っただけでもぽろぽろ剥げ落ちてしまいます。
よろしく願いしますね。


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