哀愁の矢の川峠
「矢の川峠(矢ノ川峠)」と書いて「やのことうげ」と読む。私やのこ小僧も地元尾鷲からいろいろと情報発信しまっせ!  【 このページの文章、写真は無断で転用しないでください。もしご利用される場合ははやのこ小僧までご一報を!】

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この資料は、私が行なっている矢の川峠のツアー『哀愁の矢の川峠」で配布したものです。

まだ「やのこ」に小道しかなかった時代、家族をバラバラにされて死を覚悟した隠れキリシタンの信者たちが、雪残る峠を越えて尾鷲、相賀、紀伊長島に流されてきました。
この資料は矢の川峠のツアーイベント「哀愁の矢の川峠」で配布したものです。

浦上四番崩れの件

江戸時代末期 今だキリシタン禁止令が続く中、「浦上四番崩れ」と呼ばれるキリスト教徒に対する大規模な迫害が起こります。これを引き継いだ明治新政府は、信徒を西国各地に流罪しました。
この地方にも明治3年1月、熊野に32名の流刑者が送られて来ました。明治3年3月17日、何名かは奥熊野と尾鷲、紀北地方に振り分けられました。そのうち尾鷲組、相賀組、長島組にそれぞれ6名づつ預けられ、労働と改宗を強制されました。一行はこの時まだ道なき道、「やのこ」を越えて尾鷲に入りました。地元の人々は最初は警戒しましたが、政府の思惑とは違ってやがて親切に接しるようになり、改宗するものは誰一人出ませんでした。尾鷲中井浦の庄屋「宮井芳兵衛」(現ミヤイ)には一人預けられたと記録があります。奥熊野に流されたものに、キクという17歳の少女がいました。キクは流れ谷の和田村(現在の熊野市五郷町和田)の柚木佐右衛門庄屋の家に預けられました。その後、流れ谷旦那衆の間を点々とし、佐渡村の糸川善八庄屋を最後に新鹿の浜から和歌山に送られました。キクの手記には次のようの書かれている部分があります。「3月17日はわが主の御復活祭荷あたり「今日はバスカの大祝日よ」と思っていると突然再び分散の命が下った・・中略・・熊野に切支丹の仲間がいて、親切にしてもらった」非道な迫害を受けながらも信仰を守りぬいた少女たちに対し、奥熊野の人々は迫害を加えることはありませんでした。この地方に隠れキリシタンの形跡はありません。これは17歳の少女の美しき誤解だったのでしょうか。その後32名は再び集められて、新鹿より和歌山へ行き、激しい迫害に会うことになります。
諸外国の激しい非難を受け,明治6年政府が禁止令を解除、流刑人たちは故郷に戻りました。配流された者の数3394名、うち662名が命を落とし、生き残った信徒たちは流罪の苦難を「旅」と呼んで信仰を強くし、1879年(明治12年)、故地浦上に聖堂(浦上天主堂)を建てました。

s-岩永キク写真051

一番右にいるのがキク

※上記の件に関しましては、みえ熊野の歴史と文化シリーズ4、みえ熊野学研究会編『熊野参詣道 伊勢路を行く』の中の「浦上四番崩れと奥熊野の隠れ切支丹」に詳しく述べられております。中田重顕・書

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