哀愁の矢の川峠
「矢の川峠(矢ノ川峠)」と書いて「やのことうげ」と読む。私やのこ小僧も地元尾鷲からいろいろと情報発信しまっせ!  【 このページの文章、写真は無断で転用しないでください。もしご利用される場合ははやのこ小僧までご一報を!】

2017/08 | 12345678910111213141516171819202122232425262728293031

ブログ内検索
矢の川峠を語るには、やはり近代にかけて熊野街道がどう変化していったかということを知ってもらわないといけません。
この資料は矢の川峠のツアーイベントで配布したものです。
これを読んでもらえれば熊野街道の大まかな遍歴が分ってもらえると思います。

熊野街道の遍歴

遥か昔、この地方の浦村をつなぐ生活道としての峠道は、いつしか信仰の道として次第に整備されていきました。特に江戸期には熊野古道伊勢路として多くの人々が利用しました。

江戸から明治に時代が変わると、人や馬の通行から荷車や牛車の通行へと、道の目的が変化していきます。そこで明治18年頃から、この地方で熊野街道の第一次改修が行なわれます。
荷車道として幅員が6尺(1.8m)から9尺(2.7m)に広げられ、勾配の少ない道としたため、場所によっては旧街道より距離が大幅に長くなりました。
相賀~尾鷲間は半島を回りこむ猪鼻水平道《通称》に、尾鷲~木本間は矢の川大橋―七曲りー小坪ー矢の川峠―飛鳥―評議峠―木本への道《明治道》になりました。

その後明治後半になると、物資の大量輸送の需要が高まり、自動車道としての熊野街道改修の必要性が出てきました。大正6年4月、紀伊長島~尾鷲間の二次改修が竣工し、幅員は自動車道として12尺(3.6m)に広げられました。これにより尾鷲以北で乗合自動車の運行が始まります。その後尾鷲~木本間でも明治道の幅員を拡張し乗合自動車の運行が始まりますが、矢の川峠越えの悪路のため、1日2便、夏季のみの運行となりました。
昭和2年矢の川峠の一番の難所、大橋~七曲り~小坪間に、矢の川安全索道が開通しました。これにより通期にわたって、尾鷲~木本間を定期で乗合自動車と安全索道を乗り継いで通行ができるようになりました。しかしこの時点で矢の川峠は、今だ大型トラックやバスの通行ができず、この地方の経済の発展を妨げる要因となっていました。

昭和9年ついに熊野街道、矢の川峠の二次改が修始まります。
難工事を経て昭和11年10月南谷経由の新熊野街道《昭和道》が竣工しました。すでに開業した尾鷲駅と上木本間を、省営バス紀南線が運行を始め、小荷物等の輸送も省営トラックにより始まりました。この昭和道は明治道と比べると幅員が広くコーナーも緩く設計されており、かなり大型のトラックなども通れるようになりました。また通期にわたって安定した通行が可能となり、このことは地元産業の発展に大きく影響を与えることになります。
昭和34年7月紀勢線全通とともに国鉄バス紀南線は廃止されますが、その後も昭和道はしばらくの間、全ての車の通行を引き受けることになります。
しかし今だ未舗装で標高807mの峠を越える昭和道は、東紀州尾鷲-熊野間の交通の難所でありました。
昭和40年12月、長大なトンネル2ヶ所を含む、昭和新道大改修工事が始まります。
工事は昼夜にわたり続行され、昭和43年4月6日竣工祝賀会が行われ開通しました。この工事は南谷入り口から大又まで、3箇所のトンネルと複数の橋梁によりつなぎ、標高を矢の川峠より約400m低いところを通し幅員7m、2車線、完全舗装路になったため、熊野尾鷲間が2時間45分から40分ほどに短縮されました。
現在高速紀勢自動車道の工事が進行しておりますが、平成25年完成の後は尾鷲~熊野間は20分ほどで結ばれる予定です。
スポンサーサイト