哀愁の矢の川峠
「矢の川峠(矢ノ川峠)」と書いて「やのことうげ」と読む。私やのこ小僧も地元尾鷲からいろいろと情報発信しまっせ!  【 このページの文章、写真は無断で転用しないでください。もしご利用される場合ははやのこ小僧までご一報を!】

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昨年の9月、峠茶屋の主 故稲田のぶえさんの息子さん丞さんを峠の茶屋跡にお連れしました。
その時にはあまりお話を聞く時間が無くまた次の機会に、ということでお別れしたのですが、なかなか機会が無く、先日やっと連絡をとって名古屋の丞さんの自宅にお邪魔させていただきました。

ご自宅は東山公園の周辺で非常に静かな住宅街にありました。
すぐそばには未舗装の道や森がある大変環境のいい場所です。
現在も現役で建築設計のお仕事をされていて、もうすぐ80歳になろうというのに、ログハウスの事務所兼趣味の為の建家にはパソコンなども置かれている。
趣味は囲碁や尺八。

最初に丞さんの事を少しお聞きした後、お母様ののぶえさんの事、丞さんが中学、高校、大学と茶屋を手伝ったこと、そしてのぶえさんを尾鷲から引き取り名古屋で一緒に過ごしたことなどをうかがいました。
峠にあった沢山の色紙の話しになった時、その色紙が今はどこに行ったか分からない事を息子さんに伝えたところ、なんとそのうちの一枚、文豪 吉川英治が書き残した色紙がここにあると言うではありませんか。
ビックリした私の目の前に、丞さんは金庫から出してきてその色紙を見せてくれました。


汐の坂 156

昭和25年 吉川英治が「新・平家物語」の執筆取材旅行のために尾鷲を訪れた際、矢ノ川峠を越えている。
このときの様子は「新・平家紀行」に詳述されている


それは吉川英治が峠での思い出の句を、後に色紙に書きつづりそれを尾鷲での宿泊地「五丈旅館」に送ってきた二枚のうちの一枚でした。
色紙の内容は当時峠でのぶえさんと一緒に働いていた、長女弘子さんが娘さんをおぶって対応してくれた時のことを句に書いています。
今まで何度かこの色紙のコピーの展示は行いましたが、まさか現物を丞さんが所有しているとは夢にも思いませんでした。
この他にも矢の川峠で倒木を切ってきて作った花台なども見せていただきました。

汐の坂 158
矢の川峠から高峰山へ通じる登山道を入ると多くの倒木があり、一部を切ってきてこのような花台をよく作ったそうです

食事をご馳走になりいろいろとお話をお聞きして帰路につきました。
丞さん、また何時か尾鷲にもゆっくりとくつろぎに来てください。

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先日お伝えした峠茶屋の主、のぶへさんの息子さんと昨日矢の川峠へ行ってまいりまいりました

前回の書き込みで「詳細を伝えします」と書きましたが、天候が悪く、あえて書き込みはしませんでした。

のぶへさんの息子さん稲田丞(すすむ)さんのご希望で、天候が悪くても危険が無ければ是非矢の川峠に行きたいということで、雨模様の尾鷲を午前10時過ぎに出発しました。
昭和道の入り口で熊野からのメンバーも合流。
車4台、総勢20人で時折雨降る昭和道をゆっくりと上りました。

約1時間で峠へ到着。
稲田丞さんは久しぶりの峠に懐かしそうに当時のことを語ってくれました。
丞さんの息子さんや娘さんそしてお孫さんらは、初めての峠でのぶへさんの碑や展望台跡などを見ながら、
かつてあった茶屋の跡に思いを寄せておりました。
IMGP0250.jpg
稲田丞さんのお子様、お孫様ご一行
熊野からのメンバーは、3年前に出版した「思い出の矢ノ川峠」の実行委員会の方々で、元国鉄バス運転手の久保さんも同行されました。

IMGP0249.jpg
左がのぶへさんのご長男、稲田丞さん、真中が元バスの元運転手の久保さん、右側は元車掌の中森さん
霧に煙る時折土砂降りの峠で1時間ほどすごし、峠を後にしました。
また機会があれば尾鷲の方に立ち寄って頂きたいですね。

このきっかけを作って頂いた紀北町のTさん、そして今回同行された方々、各メディアの方々、
お疲れ様でした。

IMGP0254.jpg
2本杉の前で集合写真
1年半ぶりの矢の川峠でしたが、何時もどおりの静かな峠でした。
9月17日(月)、久しぶりに矢の川峠へ大勢の方々と上ります。

峠の主故稲田のぶへさん。
その息子さんと今年の6月に縁あり知り合うことができました。
5月連休、もう一度峠に行ってみたいとの希望をその息子さん(のぶへさんのお孫さん)が叶えるために矢の川峠へやってきました。
しかし悪路のため峠へ行きつくことなく帰路につきました。
そこで紀北町にあるガソリンスタンドに入ったのですが、そこで稲田さんの車を担当したのが私の知り合いのTさん。
高級4輪駆動車の汚れに疑問に思い、どこへ行ったのか聞をき、今回のエピソードが分かったわけです。
Tさんは仕事が終わるとすぐさま私のところへやって来て、この件を知らせてくれました。
ぜひ稲田さんの希望をかなえてあげましょう! という話になり、それから何度かお孫さんとのメールのやり取りを経て、9月17日峠へ案内することになりました。

この頃は天候が不順になるのでその辺が心配なのですが、車での移動になるので多少天気が悪くとも決行する予定です。

息子さんは高校の時に茶屋を手伝ったこともあり、当時の茶屋やのぶへさんのこと、長女弘子さんのことなどいろいろと聞くことができると思います。
息子さん本人、もいろいろと伝えたいことがたくさんあると言っておりました。

今回同行者が多いためワゴン2台で行きます。
もし皆さんの中でも同行したい方がいれば、車の用意やサポートは一切できませんが勝手に参加してください(笑)

詳細はまたこのブログで発表します。

昨日自転車で峠の中間、矢の川隧道まで下見に行ってきました。
写真をし少しですがアップします。

IMGP0205.jpg
緑豊かな昭和道

IMGP0175.jpg
昨年の台風で土石流に欄干や親柱が流された蔭谷一橋
>IMGP0157.jpg
第三トンネル

IMGP0106.jpg
開鑿記念碑
”稲田のぶへさんの写真”もいよいよ最終回になりました。
これまでに公開したもの以外にもまだまだ写真はあるのですが、特に当時の風俗や稲田さんの人柄などが出ている写真を選んだつもりです。

 4屋根から
見晴台より
看板は尾鷲駅前に今でもある「胡蝶館」のもの。「胡蝶館」は食堂を営んでいましたが、現在はビジネスホテルになっています。
横に「いしや食堂」と書かれてますが、この食堂がどこなのかは分かりません。
この看板の支柱にある小さな看板には、右に「キッコーマンソース」、左に「岡三証券の投資信託」とある。
この峠にこんな大きな企業の看板があると言うことに驚いてしまいます。

ラジオ録音
ラジオの録音風景
稲田さんはラジオやテレビにも出演しています。
この時のラジオ局などは分かりませんが、テレビには昭和51年9月27日にNHK総合で、「三重の百年」「矢ノ川峠特集」と題して尾鷲市史などを手がけた当時尾鷲郷土資料館の館長、伊藤良さんとともに出演しております。


バス見送り1959.7.14

見送り
紀南線最終バスを見送る稲田さん
動画などにも残っている稲田さんが最終バスを見送る場面です。
昭和34年7月14日紀勢線全通の前日、尾鷲行の最終バスを最後に、省営バス(国鉄バス)紀南線の歴史は幕を閉じました。
峠の茶屋も閉店しますが、その後少し改装をして営業を再開します。
壁や屋根は杉の皮葺からトタンになりました。
晩年の稲田さん
改装し茶屋の前で、数少ない稲田さんのカラー写真

しかし稲田さんも高齢になり省営バス廃止に伴いお客さんも減り、間もなく峠茶屋は閉店となります。
その後娘さん夫婦が茶屋を引き継ぎますが、稲田さんは尾鷲市内の中川のそばに「矢の川食堂」を営みます。
矢ノ川食堂で
火力発電所建設に伴い繁盛した「矢の川食堂」

食堂は中電の火力発電所建設が終了するまで繁盛しその後工事終了とともに閉店しました。

以上で稲田さんの写真シリーズはお終いです。
今回の写真は茶屋と見晴台【展望台】にスポットを当てました。

写真には「矢ノ川峠見晴臺」とある立て標識の両脇に、のぶへさんともうひり男の人が写っています。
見晴台 川口
矢の川峠見晴臺にて・・

見晴台は茶屋のすぐ上の高台にあり、その名の通り尾鷲側、熊野側とも展望良好だったようです。
現在はのぶへさんの碑の左側、高峰山登山道を入ってすぐに右に上がる道があり見晴台跡に登れます。
今は基礎だけが残り、アンテナ施設があります。
茶屋と見晴台
このブログの看板写真にもなっている、峠茶屋と見晴台の風景

見晴台から茶屋の屋根を撮った、珍しい写真です。
屋根は杉の皮と一部トタンで葺き、重しに大きい石を並べていました。

屋根から2
茶屋の屋根とのぶへさん
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