哀愁の矢の川峠
「矢の川峠(矢ノ川峠)」と書いて「やのことうげ」と読む。私やのこ小僧も地元尾鷲からいろいろと情報発信しまっせ!  【 このページの文章、写真は無断で転用しないでください。もしご利用される場合ははやのこ小僧までご一報を!】

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10月11日(日)
矢の川峠に登るという遠方からの4人の仲間たちに同行させていただきました。
Yさん他3名の皆さん、それに私と息子の拓、それと地元Sさんと途中参加で金ちゃん。
峠ふもとのサークルKに集合してまず昭和道入り口の現国道42号線の千尋橋たもとの駐車スペースに向かう。
そこに車を置き、Sさんの車に乗り合わせをしてプレカット工場上の明治道の入口に移動する。
ここから徒歩で明治道を歩き始める。

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明治道から望むR42千尋橋と左上鞍部に矢の川峠

昨年今年とかなり整備をしたので今では快適に歩けるようになってきました。

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明治道脇にある桜の大木を見つめる参加者

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道の上をふさぐ花崗岩の巨石の間を行く

途中の桜の大木や、尾根道の水準点、索道の鉄塔跡の基礎、立派なつづら折れの石組みなどを楽しみながら、金ちゃんと合流。
やがて索道駅跡の広場に到着。
しばし昔の様子を想像しながら駅跡を探索。
ここから八十谷林道に上がって三木里方面が望める絶海ポイントで食事をとる。
食事後昭和道矢ノ川隧道わきに出て峠えと進路をとる。
まだ峠までは3.5kmちょっとある。
少し時間が押してるので、かなりのペースで歩きます。
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のぶえさんの日の前で記念写真

峠に到着後少し峠の話をして下山し始める。
私はこの後仕事があるため、今日のゲストの方以外地元組は走って下山することに。
峠から昭和道入り口までは約9.5km。
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息子と一緒にラン

一気に駆け下りて1時間ほどで車に到着。
全行程24kmも歩きました。
帰って店を開けると、金ちゃんが来店、その後ゲストの4人も来店していただき皆さん私の役焼き鳥を食べていただきました。
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このブログの更新も大変にお久しぶりになってしまいました。
台風8号も去って、台風一過の青空の下、ず~と昔からやりたかった、滝見橋の滝を道路から見えるよう、また歩いて滝下まで行けるよう整備をしに行きました。
滝見橋はR42から昭和道に入って3つ目の橋。
小さい橋の親柱には「瀧見橋」と刻まれている。
昔はこの道を通る国鉄バスからもきっと滝が見えたのだろう。

潅木で覆われた沢を一本一本切っては運び出す。
徐々に滝本体に近づていて行く。
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明るくなって滝の冷気が気持ちよい。
用事があったので最後切り出した木を運び出せずに本日は終了。
次回は滝までの道を整備しましょう。

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滝は橋から少し入って若干右寄りにある。
普段はほとんど水が流れていないからなのか、滝つぼは確認できない。
矢の川峠の高さに関しては記述によっていろいろです。

省営バスのガイドでは峠の標高を808mと説明していました。
確かに古い地図などには808mの高さが印刷されています。
ところが最近の地図には807m29とあります。
これは昭和32年に測量された標高です。
しかしながら国土地理院に問い合わせをしてみると、さらに新しく昭和42年に測量が行われ805m50という数値になっているそうです。

峠の標高がほんの数十年で2m以上も変わってしまうとは常識では考えられません。
基準点が道路の拡張などで移動したとしてもせいぜい数十センチ~1mの違いでしょう。
測量の誤差とも考えられますが、ひょっとしたら昭和20年の東南海地震などではこの地域の山などの沈下があったのかもしれませんね。

現在地図からは矢の川峠は消えつつありますが、正確な標高は805m50ということになりますね。

現在、峠の基準点は茶屋跡の東方15mにあるようです。

市央編さん室の資料より・・
江戸時代 熊野街道《熊野古道》は尾鷲で木本に向かう本街道と、矢の川峠を経て飛鳥、五郷、育生、楊枝を経て直接本宮へ向かう本宮道とに分かれていました。
中世から江戸期にかけて流行った西国巡礼者たちは、伊勢神宮に参拝して一番札所の那智、青岸渡寺に詣でました。
この人たちは殆ど八鬼山道《本街道》を通って木本へと南下して行きましたが、中には尾鷲からいきなり本宮へ行くものもいたようで、その人々は矢の川峠を越えていかなければなりませんでした。


享保六年《1721年》から毎年のように江戸の薬草役人が薬草を求めて、大台ヶ原や尾鷲周辺の山々を探索したようで、その時矢の川峠の南谷、蔭谷などが薬草の宝庫で役人たちは大きな収穫を上げたようです。

紀州藩では砂糖を藩の専売にしており、長島組、相賀組、尾鷲組
の砂糖問屋で売られた砂糖代金は、尾鷲組でまとめられ、矢の川峠を経て、楊枝に合った鉛山役所(カナヤマ)へ届けられました。この金を運ぶ直飛脚には、狼の出没に備え常に2人~3人の付き人を付けました。

矢の川峠の尾鷲側の江戸道ルートは、南谷と蔭谷との出会いから蔭谷をさかのぼり、伝唐超を真っ直ぐ峠へ上るものでした。