哀愁の矢の川峠
「矢の川峠(矢ノ川峠)」と書いて「やのことうげ」と読む。私やのこ小僧も地元尾鷲からいろいろと情報発信しまっせ!  【 このページの文章、写真は無断で転用しないでください。もしご利用される場合ははやのこ小僧までご一報を!】

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昭和19年12月頃編成された熊野灘部隊。
尾鷲湾を基地とする海防艦や駆潜艇などで、にわか編成されたいわば寄せ集め部隊だったようです。
昭和20年7月28日午前5時54分 終戦まで残り18日という夏の日の早朝・・・・
アメリカ艦載機グラマンの襲撃は突然始まった。
攻撃は散発的に午後4時ごろまで続きました。
まず旗艦の第45号海防艦駒橋が標的となった。
グラマンから放たれた機銃弾やロケット弾が次々命中。
湾中央での沈没は避けたかったのか、10時半頃最後の機関出力を振り絞って、何とかふるさと海岸に座礁しました。
他の艦船もほとんどが大破か沈没。
この攻撃で戦死者は72名を数え、負傷者は尾鷲国民学校(現尾鷲小学校)に運ばれましたが、治療中に亡くなる方が多く最終的に死者の合計は一四七名にのぼりました。
この艦隊で生き残った方は約二百名。
また亡くなった方一四七名で身元が判明して遺族に分骨されたのは、わずか三十余柱だけということです。
市民はこの終日の攻撃に恐怖し、朝夕に家に帰る以外はしばらくの間、共同の壕か尾鷲トンネルや坂下トンネルなどに避難生活をしたようです。

戦死者の多くが、市内火葬場では対応できず、又火葬の煙が敵機の攻撃目標にもなりかねないと言うことで、数キロはなれた矢所で荼毘に付されたと言うことです。
現在その場所には慰霊碑が作られています。


旗艦の第45号海防艦駒橋
komahasi.jpg



駒橋の歴史

1914年 1月20日 佐世保工廠にて雑役船「駒橋丸」として竣工
       8月16日 二等海防艦に類別。「駒橋」と改名
1920年 4月 1日 水雷母艦に類別
1924年12月 1日 潜水母艦に類別
1932年 機関をディーゼルに換装。測量船として改装
1944年 再度、潜水母艦に類別
1945年 7月28日 三重県尾鷲にて米軍機の空襲を受け大破着底。そのまま終戦を迎える
     11月30日 除籍。1949年浮揚解体処分される

その設計は島式貨物船で、もともとは佐世保と台湾馬公の間の輸送船として建造された。
竣工当時、駒橋丸と称していたが、ただちに潜水艇母艦として使用されることとなり、軍艦に編入され二等海防艦に登録される。潜水艇母艦として使用されるにあたり、船橋楼甲板は延長されて船尾楼甲板と連結され、船橋部から船尾までフラットな甲板が設けられた。その後種別が水雷母艦に、変更されたがその後再び潜水母艦に類別変更された。
 潜水艦が発達により大型化してくると、このような小型の艦では母艦任務をこなせなくなり、、迅鯨級が竣工したのちは潜水母艦に籍を置いたまま測量艦として使用された。後年は、昭和7年4月~11月に機関をディーゼルに換装・測量設備の充実などの改装工事を実施している。南洋から北方まで広く各地の測量任務をこなしていました。昭和18年頃には船団護衛に従事し、昭和19年には尾鷲を母港として第三海上護衛隊配下の熊野灘部隊を編成して、駒橋が旗艦となる。
これは特攻部隊用の母艦としての任務だった。終戦間近に基地としていた三重県尾鷲にて米軍艦載機グラマンの空襲を受け尾鷲古里海岸に大破着底。その後戦後浮揚され巡視船にするため修理しようとの案も出たが老朽化のため実現には至らず、そのまま解体される。

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